Se connecterミレシアの指は、頬へ届く直前で止まった。
ほんの一瞬だった。
けれど、リディエラは見逃さなかった。
蜂蜜色の髪の隙間から覗く空色の瞳が、姉の左手へ落ちる。黒檀の扇子が当たったのは自分の頬ではなく、リディエラの掌だった。痛みを受けたのが誰なのか、ミレシアだけは確かに見ていた。
そのうえで、彼女は迷った。
触れられていない頬を押さえるべきか。
何もなかったと告げるべきか。
庭園を満たす沈黙は、冷たい水の膜のように二人の間へ張りつめていた。
噴水から落ちる水音。風に揺れる白い花。遠巻きに立つ生徒たちの浅い呼吸。石畳の上へ落ちた黒い扇子の影。
リディエラの左手は、袖の陰で痺れていた。
掌の中央が熱を持ち、脈に合わせて鈍く痛む。指を動かすたび、黒檀の硬い骨が当たった場所から細い疼きが走った。
それでも手を隠さなかった。
ミレシアが真実を言うなら、姉の傷を見ればよい。
言わないなら。
その選択もまた、彼女自身のものだった。
ミレシアの睫毛が震える。
そして、止まっていた指先が頬へ触れた。
触れられていない右の頬へ。
白い指が肌を覆い、その下で唇がかすかに開く。息を呑んだような音が漏れた。
周囲の空気が、一斉に動いた。
「まあ……」
誰かが声を上げる。
その声を合図にしたように、生徒たちの囁きが広がった。
「本当に打ったの?」
「あの音を聞いたでしょう」
「妹君に、あんなひどいことを」
リディエラは妹から目を逸らさなかった。
ミレシアの瞳に、ゆっくりと涙が溜まっていく。
あまりにも美しい涙だった。
透明な雫が睫毛の先へ丸く留まり、頬へ落ちるまでの時間さえ計られたように見えた。
ミレシアは唇を噛み、首を横へ振る。
「お姉様を責めないでください」
声はか細く、けれど庭園の端までよく通った。
「きっと、私が何かしてしまったのです」
その言葉に、周囲の非難はさらに強くなる。
「ご自分が打たれたのに、まだ庇うなんて」
「ミレシア様はお優しすぎます」
「何をなさったとしても、暴力が許されるはずがないわ」
誰も、何を見たのかを確かめようとはしなかった。
黒い扇子が振り上げられた。
鋭い音が響いた。
ミレシアが頬を押さえ、涙を流した。
必要な形は、すでに揃っている。
事実よりも、出来上がった光景の方が強かった。
リディエラは、前世の職場で見た会議を思い出した。
誰かが声を荒らげ、別の誰かが俯く。事情を知らない者は、先に泣いた方を被害者だと決める。あとから説明しても、言い訳が多い、責任逃れだと切り捨てられる。
母もそうだった。
依子が何もしていなくても、母が涙を流せば、父は決まって言った。
「お母さんを泣かせるな」
何があったのかを尋ねる前に。
泣いている人間の言葉が真実なのではない。
けれど、人は真実より、分かりやすい痛みを先に信じる。
ミレシアの涙が頬を伝う。
リディエラは、自分の左手をゆっくり下ろした。
その時、回廊の向こうから、硬い足音が近づいた。
生徒たちが道を開ける。
白金の髪が、曇天の下でも冷たい光を帯びていた。
ティルヴァン・エルグレード。
王太子を示す銀青の飾緒が、濃紺の制服の胸元を横切っている。背筋は真っ直ぐで、歩調に乱れはない。表情も穏やかだった。
その半歩後ろに、ヴァルシェ・ネイグランが続く。
暗い赤褐色の髪。灰緑の瞳。腰には学院内での帯剣を許された長剣がある。
彼は庭園へ入った瞬間から、リディエラではなくミレシアだけを見ていた。
「ミレシア様」
低い声が落ちる。
ヴァルシェは数歩で彼女の前へ出た。自分の身体で姉妹の間を遮り、ミレシアの頬へ視線を向ける。
「お怪我を」
「大丈夫です。どうか、お姉様を責めないで」
ミレシアが首を振る。
その動きに合わせて涙がもう一滴落ちた。
ヴァルシェの顎が固くなる。
「これを見て、責めるなと?」
彼の右手が、剣の柄へ近づいた。
まだ触れてはいない。
だが指先は僅かに曲がり、いつでも握れる形を取っている。
リディエラの視界に赤い文字が浮かんだ。
〈ヴァルシェ・ネイグラン:17〉
〈排除域〉
好感度の数字の下で、細い光が脈打つ。
彼にとってリディエラは、すでに守るべき相手を脅かす敵だった。
ミレシアが真実を口にしなければ、彼は疑わない。
問いもしない。
目の前の涙だけで、剣を抜く理由を得る。
「ヴァルシェ」
ティルヴァンが名を呼んだ。
声は静かだった。
叱責でも命令でもない。ただ、それ以上動くなという意志だけが、低い温度の中に込められている。
ヴァルシェは剣の柄から手を離した。
しかしリディエラへ向ける視線は、刃より鋭い。
ティルヴァンは妹を庇う彼の横へ並び、リディエラを見た。
濃紺の瞳は波立っていない。
怒りを露わにせず、冷静に状況を整理しようとしているように見える。
けれど身体に残る記憶は知っていた。
彼が穏やかなほど、すでに結論は固まっている。
「リディエラ」
婚約者の名を呼ぶ声に、親しさはなかった。
「説明してもらえるだろうか」
問いかけの形をしている。
だが彼の立ち位置は、ミレシアの側だった。
彼女の涙を確かめ、ヴァルシェを制したあと、最後にリディエラへ言葉を与える。
順序だけで、誰が被害を受け、誰が説明すべき立場なのかが決まっている。
リディエラは扇子を持つ右手へ力を入れた。
左の掌はまだ熱い。
「何についてでしょうか」
庭園の空気が張りつめる。
ヴァルシェの眉が険しくなった。
「何をしたのかも分からないと言うのか」
「何が起きたと認識されているのかを確認しています」
「音を聞いた者がいる。ミレシア様は頬を押さえている。それでも――」
「あなたは、私の手が妹の頬へ触れたところを見ましたか」
ヴァルシェの言葉が止まった。
彼が庭園へ入ったのは、音が響いたあとだ。
見てはいない。
けれど、その沈黙は一瞬だった。
「見ていなくとも、状況は明らかだ」
「何が明らかなのですか」
「あなたがミレシア様を打った」
声が強くなる。
周囲の生徒が息を潜めた。
リディエラは反論を重ねなかった。
ヴァルシェは、今この場で事実を探しているのではない。守るべき人を決め、その人を傷つけた敵を求めている。
彼の視線の中では、妹の涙がすでに証拠だった。
ティルヴァンが片手を僅かに上げる。
「感情的になるな、ヴァルシェ」
「ですが、殿下」
「私が聞いている」
穏やかな声だった。
それでもヴァルシェは口を閉じた。
ティルヴァンは再びリディエラを見る。
「打っていないと言うつもりか」
その問いに答える代わりに、リディエラはミレシアへ視線を移した。
白い指は、まだ右の頬を覆っている。
赤みはない。
腫れもない。
黒檀の骨が触れていれば、少なくとも薄い線くらいは残るはずだ。
ミレシアは姉の視線を受け、肩を震わせた。
リディエラは静かに尋ねた。
「ミレシア」
「……はい、お姉様」
「私は、あなたの頬に触れましたか」
囁きが止まった。
噴水の音だけが戻ってくる。
ミレシアの唇が開く。
けれど、声は出なかった。
彼女の空色の瞳が、ほんの僅かに揺れる。
右手は頬に置かれたまま。
その下の肌に痛みがないことを、彼女は知っている。
触れられていない。
そう答えるだけでよい。
だが、その言葉を口にすれば、姉が自分を打ったという光景は崩れる。
周囲の同情も、ヴァルシェの怒りも、ティルヴァンが守るために立つ理由も失われる。
沈黙が長くなる。
周囲の者たちは、その沈黙を別の意味に受け取った。
「怖くて言えないのよ」
「姉君に逆らえば、あとで何をされるか」
「お可哀想に」
ミレシアは一度だけ、周囲へ視線を動かした。
自分へ向けられる同情。
庇うために前へ出た騎士。
穏やかに待つ王太子。
そして最後に、リディエラを見る。
涙が、また頬を伝った。
「もう、よいのです」
それが答えだった。
触れられたとも、触れられていないとも言わない。
けれど周囲には、姉を庇って事実を伏せたように聞こえる。
ヴァルシェの顔に怒りが濃くなる。
「ミレシア様、あなたが庇う必要はありません」
「本当に、よいのです。私がもっと気をつけていれば」
「あなたに非はない」
ティルヴァンが静かに言った。
その言葉は慰めであると同時に、裁定だった。
ミレシアに非がないなら、責めを負うのはリディエラだけになる。
リディエラは妹の頬から視線を外した。
弁解することはできる。
左の掌を見せれば、扇子が当たった痕がある。近くにいた者の中には、軌道を正確に見た者がいるかもしれない。
けれど、誰もそれを確かめようとはしていない。
この場で必要とされているのは、真実ではなかった。
涙を流す妹。
彼女を守る騎士。
公平に裁こうとする王太子。
そして、言い逃れを重ねる悪い姉。
すでに役割が決まり、その形に合わない事実は切り捨てられる。
ここで左手を見せれば、自分で打っただけだと言われるだろう。
音を作るために芝居をしたのなら、妹を陥れようとしたのだと解釈される。
説明を重ねるほど、言い訳として消費される。
リディエラは黒檀の扇子を閉じた。
小さな音が鳴る。
「分かりました」
ティルヴァンの眉が僅かに動く。
「何が分かった」
「殿下が、どのような説明をお求めなのかです」
「私は事実を尋ねている」
「でしたら、先に妹の答えをお聞きください」
「ミレシアは話したくないと言っている」
「触れたかどうかには答えていません」
「これ以上、彼女へ強いるな」
穏やかな声の奥に、冷たいものが混じる。
リディエラの視界へ数字が浮かんだ。
〈ティルヴァン・エルグレード:34→32〉
下がった。
事実の確認を求めただけで。
妹へ答えを迫ったと認識されたのだろう。
このまま警戒域の下へ落ちれば、監視や尋問が強くなる。さらに下がれば、王太子の権限で排除される。
それでも、リディエラは発言を撤回しなかった。
相手を怒らせないことと、誤った判断を受け入れることは同じではない。
「妹へ強いるつもりはありません」
声を荒らげずに告げる。
「答えないことを選ぶなら、それも妹の選択です」
ミレシアの指先が頬の上で僅かに強ばる。
「ただし、答えなかったことまで、私が触れた証拠として扱わないでください」
生徒たちの間で、再び囁きが起こる。
言葉が冷たい。
妹を追い詰めている。
反省していない。
どれも、リディエラの耳へ届くような声量だった。
ヴァルシェが一歩前へ出る。
「これ以上、ミレシア様を傷つけるなら」
「傷つけるなら、どうするのですか」
リディエラは彼を見る。
灰緑の瞳に、迷いはない。
「剣を抜きますか」
腰の長剣が、重い沈黙の中で存在を主張している。
ヴァルシェの手は、また柄へ近づいていた。
「必要なら」
「誰の証言も確認せずに?」
「目の前で怯えている方を守るためだ」
「守ることと、先に敵を決めることは別です」
ヴァルシェの呼吸が深くなる。
怒りを抑えているのだろう。
〈ヴァルシェ・ネイグラン:17→15〉
赤い数字が沈む。
危険が近づいている。
リディエラの背中へ冷たい汗が流れた。
怖くないわけではない。
剣が抜かれれば、今の自分には防ぐ術がない。ティルヴァンが止める保証もない。
それでも、謝って終わらせることはできなかった。
していない行為を認めれば、ミレシアは今後も沈黙だけで姉を加害者にできる。
ヴァルシェは涙を見れば剣を抜き、ティルヴァンは状況が整えば裁定を下す。
その関係を受け入れることになる。
リディエラは左手を胸の前へ上げた。
袖口が滑り、掌が露わになる。
中央には黒檀の骨が当たった赤い痕が走っていた。薄い皮膚の一部が裂け、血が小さく滲んでいる。
周囲から、驚きの息が漏れる。
「音は、この手を打って作りました」
ティルヴァンの視線が傷へ落ちる。
ヴァルシェも一瞬だけ目を見開いた。
ミレシアの顔から、涙とは別の色が消えた。
「妹の頬には触れていません」
リディエラはそれだけを言った。
左手を証拠として差し出すつもりはなかった。信じさせるためでもない。ただ、事実を一度だけ置く。
「では、なぜそのような真似をした」
ティルヴァンが問う。
答えられない。
強制ミッションの存在を話せば、狂気と判断される可能性がある。数値や表示が自分にしか見えない以上、証明もできない。
「お答えできません」
「理由も言わず、信じろと?」
「信じてほしいとは申しておりません」
ティルヴァンの濃紺の瞳が細くなる。
「ただ、確認していただきたいだけです。妹の頬に傷があるか。私の掌に何が残っているか。それを見たうえで、ご判断ください」
沈黙が落ちた。
ティルヴァンはミレシアへ視線を向ける。
ミレシアは頬を覆ったまま、俯いている。
「見せられるか」
穏やかな問いだった。
だがミレシアの肩は大きく揺れた。
「殿下……もう、よいのです。本当に」
「確認するだけだ」
「お姉様をこれ以上お責めにならないでください」
答えはまた、ずれていた。
頬を見せるかどうかではない。
姉を責めるなと願うことで、姉が責められる行為をしたという前提だけを残す。
ティルヴァンはそれ以上求めなかった。
「分かった」
彼はミレシアの選択を尊重したつもりなのだろう。
リディエラには、確認を諦めたようにしか見えなかった。
その瞬間、視界の白い表示が大きく明滅した。
〈判定処理完了〉
〈平手打ちの音を確認〉
〈対象への接触:未確認〉
〈観衆の認識:達成〉
〈主要人物による加害認定:達成〉
リディエラの呼吸が止まる。
最後の項目。
主要人物による加害認定。
実際に妹を打ったかどうかではない。
ティルヴァンとヴァルシェが、リディエラを加害者だと判断したことが条件に含まれている。
表示が白く弾けた。
〈ミッション達成〉
〈生存ポイント:97→102〉
数字が増える。
左手の痛みも、周囲から向けられる嫌悪も、そのまま残っている。それでも世界は、成功だと認めた。
ミレシアを傷つけなかったことではない。
悪役令嬢が妹を打ったと、周囲に信じさせたことを。
リディエラは表示の消えた空間を見つめた。
この世界が求めているのは、現実の加害ではない。
加害者に見える姉。
泣いて庇う妹。
彼女を守る男たち。
誰も事実を確かめないまま完成する、分かりやすい光景。
人が傷ついたかどうかより、誰が悪者として認識されたかを重く見る。
だからミレシアの頬に触れなくても達成された。
だから、フェルニカへ謝罪した時は生存ポイントが減った。
リディエラが悪役令嬢として見える限り、世界は満足する。
「リディエラ」
ティルヴァンの声が届く。
「この件については、改めて話を聞く。今日はミレシアへ近づかないように」
命令だった。
婚約者へ向ける言葉ではない。
危険人物の行動を制限する王太子の声。
「承知しました」
リディエラは答えた。
反論はしない。
今ここで続けても、事実はもう動かない。
ヴァルシェは最後まで厳しい目を向けていた。ミレシアは彼の後ろで頬を押さえ、涙を拭っている。
リディエラは二人へ背を向けた。
歩き出すと、周囲の生徒たちが距離を取る。濃紺の制服の裾が石畳を擦り、足音だけが庭園へ響いた。
左手は脈打つように痛んでいる。
それでも、妹を打たなかったことだけは、自分の中から奪われない。
回廊へ入る直前、背後から小さな声が聞こえた。
「お姉様」
振り返る。
ミレシアが、ティルヴァンとヴァルシェの間からこちらを見ていた。
涙はまだ残っている。
けれど、その空色の瞳だけは泣いていなかった。
頬を覆っていた手が、ゆっくり下ろされる。
白い肌には、やはり何の痕もなかった。
その事実を見せるように、ミレシアは一瞬だけ顔を上げる。
そして誰にも見えない角度で、ほんの僅かに微笑んだ。
ロディマスを探すことに、リディエラは少し迷った。先王妃アリエネの葬儀や老犬ルーディの夜について聞いたばかりで、さらに王太子の内側を弟から引き出せば、結局は黒ミッションのために弱点を集めることになる。今朝決めたのは、泣く理由を作るのではなく、泣いても困らないと思える状況を探すことだった。そのために弟の秘密を利用するのなら、選択肢を閉じた意味がない。リディエラは黒い帳簿へ、「兄の傷ではなく、弟自身が兄との関係をどう感じているかだけを聞く」と一行書き、学院北側の小さな射場へ向かった。 午後の射場には乾いた草の匂いと弦が空気を切る短い音が漂っていた。ロディマスは王族用の練習区画で一人、標的へ矢を射ていたが、放たれた一本は中心からわずかに右へ外れた。白金の髪の少年は「外した」と低く呟き、次の矢を取ろうとして入口のリディエラに気づくと、明るい青の瞳を露骨に細めた。前に資料室で話した時より警戒が強く、弓を下ろしながらも自分から近づこうとはしない。「今度は何を聞きに来た」「少しだけ、お話しできればと思って」「兄上のことなら嫌だ。母上のことも、ルーディのことも話しただろ。あれ以上、兄上の弱みを教えるつもりはない」 返事は取りつく島もなかったが、それは当然の拒絶だった。ロディマスの立場から見れば、婚約者でありながら兄の過去を調べ回っているリディエラが、何かに使うため弱点を探しているように見えてもおかしくない。黒ミッションを抱えている以上、「絶対に利用しない」と将来まで保証することにもためらいがあったが、少なくとも今日ここへ来た目的だけは違う。リディエラは標的と少年の間を避け、射線から十分離れた場所に立った。「殿下を傷つける材料にするつもりはありません」 ロディマスの眉が動いた。「……兄上を?」「はい。今日は、あなたがお兄様といる時にどう感じているのかを聞きたいのです」「僕の気持ちを知って、どうする」「今は何もしません。ただ、殿下が誰かを守ろうとする時、守られる側にはどう見えるのかを知りたいと思いました。話したくなければ、ここで終わります」 風が射場を抜け、積まれた藁束を乾いた音で擦った。ロディマスはすぐには答えず、矢筒へ戻した矢羽を指先で整えながら、何度かリディエラの顔を確かめる。やがて彼は近くの長椅子へ腰を下ろし、弓を隣に置いた。話すと決めたというより、ど
目を覚ました時、窓の外はまだ朝になりきっていなかった。薄い雲の向こうから青白い光が差し、寝台の天蓋と床の境目を曖昧にしている。昨夜の雨は止んでいたが、窓硝子には水滴が残り、暖炉の灰からは湿った薪の匂いが漂っていた。リディエラは上掛けの中で一度深く息を吸い、視界の隅に残っている黒い表示へ目を向けた。〈黒ミッション残り時間:48時間00分00秒〉 数字が切り替わり、〈47時間59分59秒〉へ変わった。その下に見慣れない白い枠が開き、黒い画面の中央へ細い銀線が走る。これまでにはなかった項目が、命令ではなく助言を装うように静かに浮かんだ。〈推奨攻略〉〈先王妃アリエネ関連イベントを使用してください〉 リディエラの指先から、眠気が消えた。昨夜、ティルヴァンと向かい合って食事をしたばかりだった。香りの強い根菜を最後に食べる理由を聞き、雨の日を好む理由を聞いた。先王妃についてどこまで知ったのかと問われた時にも、彼が今その話を聞きたいかを確かめ、本人が「今日はいい」と答えたところで止めた。それを遠回りだとでも言いたげに、黒い画面がさらに広がった。〈推奨選択肢〉〈A:母親の死を責める〉〈B:無実の侍従を処刑した罪を指摘する〉〈C:母親の遺品を破壊する〉〈D:自身が理解者であると告げる〉 最初の3つを読んだ時には、嫌悪より先に身体が強ばった。だがDへ視線が移ったところで、リディエラはかえって長く画面を見つめた。一見すると、4つの中で最も穏やかだった。責めない。壊さない。罪を突きつけない。ただ、自分だけはあなたを理解していると伝えるだけだ。 孤独だったのですね。泣けなかったのですね。母上を失って苦しかったのでしょう。他の者には分からなくても、私は分かります――そんな言葉を柔らかな声で並べればいい。暴力も毒も使わず、相手を抱き締めるような形で心の奥へ入っていける。 セフィランの顔が浮かんだ。怒ってしまったのですね。妹を羨ましいと思ったのでしょう。愛されたいだけなのではありませんか。本人より先に感情へ名前をつけ、救いたいという善意で出口を狭めていく。Dは、それと何が違うのだろう。 自分だけが理解していると宣言するには、まずティルヴァンが何を感じているかをこちらで決めなければならない。母を失って悲しい。告発した侍従のことで罪悪感がある。誰にも弱さを見せられず孤独だ
王宮の小食堂には、雨の匂いが薄く入り込んでいた。 夕方から降り始めた雨が、高い硝子窓を細かな指先で叩いている。外はすでに暗く、庭園に並ぶ魔術灯だけが濡れた石畳へ青白い光を落としていた。 長い食卓の中央には、白い花と銀の燭台。 料理は2人分。 王も王妃もいない。 今夜は、王太子とその婚約者が今後の学院行事について確認するための、形式的な夕食会だった。 少なくとも表向きは。 リディエラはティルヴァンの向かいに座っていた。 濃紺の正装。 白金の髪。 背筋はいつも通り真っ直ぐで、ナイフを持つ角度まで乱れがない。 ティルヴァンは食事中もほとんど音を立てなかった。 給仕が皿を下げる時には僅かに身体を引き、次の皿が置かれる位置を見ずとも把握している。 それを見ながら、リディエラは不意に気づいた。 自分は、この人が食事をするところを何度見ただろう。 婚約したのは幼い頃だ。 王宮の晩餐。 公爵家での食事。 学院の茶会。 隣へ座った記憶はいくつもある。 それなのに。 彼が何を先に食べるか。 何を残すか。 熱い物と冷たい物のどちらを好むのか。 食事中に話す方なのか、静かな方なのか。 そういうことを、過去のリディエラはほとんど覚えていなかった。 覚えているのは別のことばかりだ。 王太子妃らしい姿勢。 失敗しない食器の扱い。 隣国の令嬢より豪華なドレス。 母エネファが認める髪型。 ティルヴァンが婚約を解消しないために、どう振る舞うべきか。 ずっと隣にいたはずなのに、彼を見ていなかった。 見ていたのは、彼の隣に立つ自分だった。「食欲がない?」 ティルヴァンの声で、リディエラは顔を上げた。「いえ」 皿を見る。 白身魚と香草。 半分ほどしか食べていない。「少し考え事をしていました」「毒のこと?」「今日は違います」「では、魔術灯?」「それも違います」 ティルヴァンの視線が一度、リディエラの顔を確かめるように動く。「珍しいね」「何がでしょう」「君が考えていることを、こちらから当てなくても答えるのが」 責める調子ではなかった。 ただ、過去との違いを記録するような言葉。「隠す必要のないことでしたので」「隠す必要があることは、まだ多い?」 黒ミッション。 システム。 好感度。 先王妃の記録。
旧王妃庭園へ続く渡り廊下の手前で、リディエラは足を止めた。 視界の隅では、黒い表示が時刻を刻み続けている。〈推奨接触時刻まで:08分42秒〉〈対象:ティルヴァン・エルグレード〉〈対象は旧王妃庭園へ移動中です〉 あと8分。 このまま進めば、会える。 システムがわざわざ時間と場所を指定したということは、そこにティルヴァンを泣かせるための何かがあるのだろう。 亡き母の庭園。 十一歳で失った王妃アリエネ。 母の死後も涙を見せなかった少年。 老犬の亡骸の前で、「僕が悲しめば、皆が困る」 と口にしたという記憶。 そこまで材料が揃えば、何をすればよいかは想像できる。 母親の話をする。 葬儀の日を尋ねる。 泣かなかった理由を問う。 昔の傷を丁寧に撫で、閉じ込めてきたものが溢れるまで待つ。 優しく行えば、暴力には見えない。 けれど目的は同じだ。 涙を得るために、相手の最も痛い場所へ触れる。 ネレスの言葉が蘇る。 ――一番触れられたくない傷を探して、そこを抉ればいい。 リディエラは旧王妃庭園へ続く扉を見た。 白い石造りの廊下。 先には王宮警備兵が2人立っている。 通ろうと思えば通れる。 王太子の正式な婚約者であるリディエラには、その資格がある。「お嬢様?」 後ろからマルタの声がした。「参られないのですか」「……今日はやめます」 システム表示が明滅する。〈推奨接触時刻まで:07分56秒〉 命令ではない。 推奨。 ならば従わなくても、今すぐ失敗にはならない。「別の場所へ行きます」「どちらへ?」「王宮記録局です」 マルタの目が僅かに見開かれた。「先王妃陛下について、もう少し確認します」「殿下へ直接お尋ねにならないのですか」「本人へ尋ねる前に、私が何も知らなさすぎます」 自分が知りたいからと、本人にすべて説明させる必要はない。 公開されている記録から確認できるところまでは、自分で調べる。 そのうえで、なお本人へ尋ねる必要があるのか考える。 リディエラは踵を返した。 背後で推奨時刻だけが減り続けている。 王宮記録局は、王城西翼の古い棟にあった。 白亜の華やかな中央宮殿とは違い、灰色の石壁に細い窓が並ぶ実務的な建物だ。扉の上に王冠と羽根筆を組み合わせた紋章が掲げられている。 入口で身分を確認
資料棟を出た時、時計塔は15時12分を指していた。 旧王妃庭園へ向かうよう示された時刻は16時10分。 視界の隅には、別の時間が減り続けている。〈黒ミッション残り時間:66時間49分37秒〉 リディエラは回廊の途中で足を止めた。 ティルヴァンの母アリエネが亡くなったこと。葬儀でも泣かなかったこと。母の老犬が死んだ夜、「僕が悲しめば、皆が困る」と口にしたこと。 知ってしまった。 だが、その知識を使うつもりはない。 旧王妃庭園で亡き母の話を故意に持ち出し、老犬の記憶へ触れる。泣いてもよいと優しく言いながら、涙が出るまで傷を撫で続ける。 そんなことをすれば、黒い表示は喜ぶかもしれない。 リディエラは嫌だった。 ただ、嫌だという感情だけで残り時間は止まらない。 もう一つ確かめたいことがある。 どこまでが無効で、どこからが「本人の感情」と判定されるのか。 身体を傷つけることは無効。薬も、魔術による強制も、演技も無効。 では、偽りの知らせによって本気で悲しませた涙はどうなる。 他人から誘導された感情でも、本人が本当に悲しめば有効なのか。 そんな境界を尋ねる相手として、一人だけ思い浮かんだ。 最も相談したくない男でもあった。 ネレス・カルヴァディン。 好感度11。未だ排除域。 毒を盛り、殺す理由を教えず、価値がある間だけ生かすと言った青年。 同時に、人間がどこで傷つくかをよく知っている。「マルタ」 少し後ろを歩いていた侍女が顔を上げる。「はい」「東棟へ寄ります」 マルタの表情が露骨に曇った。「ネレス様ですか」「おそらく」「またお茶を?」「飲みません」 即答すると、彼女は少しだけ安心したようだった。「人の多い場所で話します。前と同じように、少し離れていてください。ただし、私が杯に触れたら来てください」「今回は杯に触れないとおっしゃったばかりでは」「念のためです」「分かりました」 以前より、彼女は質問するようになった。 それが嫌ではなかった。 東棟の談話回廊は、午後の講義を終えた生徒たちで賑わっていた。 香辛料を練り込んだ焼き菓子の匂い。異国語の会話。窓のない回廊を風が通り、吊るされた布飾りを鳴らしている。 ネレスは、以前と同じ奥の席にいた。 今日は3人の男子生徒を相手に、札を使った遊戯をしている
旧王妃庭園へ向かうまで、まだ数時間あった。 黒いミッションは、視界の隅で時間を削り続けている。〈残り時間:69時間14分08秒〉 リディエラは表示を閉じた。 焦れば、傷つく言葉を探し、過去を暴き、泣くまで追い詰める方へ傾く。それをしないと決めたのなら、まず知るべきは「どうすれば泣くか」ではなく、「なぜ泣かないのか」だった。 王立アルセリア学院の中央資料棟には、王家に関する公刊記録も保存されている。 王太子の生い立ちそのものは秘密ではない。 むしろ、王位を継ぐ者の歩みとして積極的に残されていた。 リディエラは司書へ申請し、宮廷年報、王都新聞の縮刷版、学院行事記録を閲覧机へ運んでもらった。 高い窓から射し込む朝の光。 遠くで頁をめくる乾いた音。 黒い革表紙の宮廷年報を開く。 最初に出てきたのは、六歳のティルヴァンだった。 公式晩餐へ初めて出席した日の記録。〈王太子殿下は幼少ながら終始ご立派な態度を保たれ、諸侯の挨拶へ一人ずつお応えになった〉 添えられた記録画には、小さな白金の髪の少年がいる。 大人用の椅子へ座れば足が床へ届かないほど幼い。 それでも背筋を真っ直ぐ伸ばし、膝の上へ両手を置き、正面を見ている。 笑っていない。 怯えてもいない。 子どもらしい退屈さすら見えない。 次は八歳。 外国使節団を迎えた時の記録だった。〈殿下は使節の母国語による挨拶を披露され、両国友好の象徴として大きな称賛を受けられた〉 写真のティルヴァンは、やはり同じ顔をしている。 唇の角度まで整っているように見えた。 十歳。 王太子として初めて民衆の前で短い演説を行った。〈未来の王としての責任をすでに深く理解しておられる〉 どの記録も褒めている。 泣かなかった。 取り乱さなかった。 怯えなかった。 失敗しなかった。 そのすべてが、美徳として同じ方向へ積まれていた。 リディエラは紙の余白へ簡単に書き留める。 六歳――公式晩餐。 八歳――外国使節。 十歳――初演説。 すべて「落ち着いていた」「立派だった」「年齢以上」と評価。 子どもらしい感情が記録されていない。 羽根筆を止める。 記録にないことと、存在しなかったことは違う。それでも、周囲が何を価値あるものとして残したかは分かる。 感情を抑えられる王子。 乱れない