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第5話 打たれていない妹の涙

Auteur: なつめ
last update Date de publication: 2026-08-06 23:01:54

 

ミレシアの指は、頬へ届く直前で止まった。

ほんの一瞬だった。

けれど、リディエラは見逃さなかった。

蜂蜜色の髪の隙間から覗く空色の瞳が、姉の左手へ落ちる。黒檀の扇子が当たったのは自分の頬ではなく、リディエラの掌だった。痛みを受けたのが誰なのか、ミレシアだけは確かに見ていた。

そのうえで、彼女は迷った。

触れられていない頬を押さえるべきか。

何もなかったと告げるべきか。

庭園を満たす沈黙は、冷たい水の膜のように二人の間へ張りつめていた。

噴水から落ちる水音。風に揺れる白い花。遠巻きに立つ生徒たちの浅い呼吸。石畳の上へ落ちた黒い扇子の影。

リディエラの左手は、袖の陰で痺れていた。

掌の中央が熱を持ち、脈に合わせて鈍く痛む。指を動かすたび、黒檀の硬い骨が当たった場所から細い疼きが走った。

それでも手を隠さなかった。

ミレシアが真実を言うなら、姉の傷を見ればよい。

言わないなら。

その選択もまた、彼女自身のものだった。

ミレシアの睫毛が震える。

そして、止まっていた指先が頬へ触れた。

触れられていない右の頬へ。

白い指が肌を覆い、その下で唇がかすかに開く。息を呑んだような音が漏れた。

周囲の空気が、一斉に動いた。

「まあ……」

誰かが声を上げる。

その声を合図にしたように、生徒たちの囁きが広がった。

「本当に打ったの?」

「あの音を聞いたでしょう」

「妹君に、あんなひどいことを」

リディエラは妹から目を逸らさなかった。

ミレシアの瞳に、ゆっくりと涙が溜まっていく。

あまりにも美しい涙だった。

透明な雫が睫毛の先へ丸く留まり、頬へ落ちるまでの時間さえ計られたように見えた。

ミレシアは唇を噛み、首を横へ振る。

「お姉様を責めないでください」

声はか細く、けれど庭園の端までよく通った。

「きっと、私が何かしてしまったのです」

その言葉に、周囲の非難はさらに強くなる。

「ご自分が打たれたのに、まだ庇うなんて」

「ミレシア様はお優しすぎます」

「何をなさったとしても、暴力が許されるはずがないわ」

誰も、何を見たのかを確かめようとはしなかった。

黒い扇子が振り上げられた。

鋭い音が響いた。

ミレシアが頬を押さえ、涙を流した。

必要な形は、すでに揃っている。

事実よりも、出来上がった光景の方が強かった。

リディエラは、前世の職場で見た会議を思い出した。

誰かが声を荒らげ、別の誰かが俯く。事情を知らない者は、先に泣いた方を被害者だと決める。あとから説明しても、言い訳が多い、責任逃れだと切り捨てられる。

母もそうだった。

依子が何もしていなくても、母が涙を流せば、父は決まって言った。

「お母さんを泣かせるな」

何があったのかを尋ねる前に。

泣いている人間の言葉が真実なのではない。

けれど、人は真実より、分かりやすい痛みを先に信じる。

ミレシアの涙が頬を伝う。

リディエラは、自分の左手をゆっくり下ろした。

その時、回廊の向こうから、硬い足音が近づいた。

生徒たちが道を開ける。

白金の髪が、曇天の下でも冷たい光を帯びていた。

ティルヴァン・エルグレード。

王太子を示す銀青の飾緒が、濃紺の制服の胸元を横切っている。背筋は真っ直ぐで、歩調に乱れはない。表情も穏やかだった。

その半歩後ろに、ヴァルシェ・ネイグランが続く。

暗い赤褐色の髪。灰緑の瞳。腰には学院内での帯剣を許された長剣がある。

彼は庭園へ入った瞬間から、リディエラではなくミレシアだけを見ていた。

「ミレシア様」

低い声が落ちる。

ヴァルシェは数歩で彼女の前へ出た。自分の身体で姉妹の間を遮り、ミレシアの頬へ視線を向ける。

「お怪我を」

「大丈夫です。どうか、お姉様を責めないで」

ミレシアが首を振る。

その動きに合わせて涙がもう一滴落ちた。

ヴァルシェの顎が固くなる。

「これを見て、責めるなと?」

彼の右手が、剣の柄へ近づいた。

まだ触れてはいない。

だが指先は僅かに曲がり、いつでも握れる形を取っている。

リディエラの視界に赤い文字が浮かんだ。

〈ヴァルシェ・ネイグラン:17〉

〈排除域〉

好感度の数字の下で、細い光が脈打つ。

彼にとってリディエラは、すでに守るべき相手を脅かす敵だった。

ミレシアが真実を口にしなければ、彼は疑わない。

問いもしない。

目の前の涙だけで、剣を抜く理由を得る。

「ヴァルシェ」

ティルヴァンが名を呼んだ。

声は静かだった。

叱責でも命令でもない。ただ、それ以上動くなという意志だけが、低い温度の中に込められている。

ヴァルシェは剣の柄から手を離した。

しかしリディエラへ向ける視線は、刃より鋭い。

ティルヴァンは妹を庇う彼の横へ並び、リディエラを見た。

濃紺の瞳は波立っていない。

怒りを露わにせず、冷静に状況を整理しようとしているように見える。

けれど身体に残る記憶は知っていた。

彼が穏やかなほど、すでに結論は固まっている。

「リディエラ」

婚約者の名を呼ぶ声に、親しさはなかった。

「説明してもらえるだろうか」

問いかけの形をしている。

だが彼の立ち位置は、ミレシアの側だった。

彼女の涙を確かめ、ヴァルシェを制したあと、最後にリディエラへ言葉を与える。

順序だけで、誰が被害を受け、誰が説明すべき立場なのかが決まっている。

リディエラは扇子を持つ右手へ力を入れた。

左の掌はまだ熱い。

「何についてでしょうか」

庭園の空気が張りつめる。

ヴァルシェの眉が険しくなった。

「何をしたのかも分からないと言うのか」

「何が起きたと認識されているのかを確認しています」

「音を聞いた者がいる。ミレシア様は頬を押さえている。それでも――」

「あなたは、私の手が妹の頬へ触れたところを見ましたか」

ヴァルシェの言葉が止まった。

彼が庭園へ入ったのは、音が響いたあとだ。

見てはいない。

けれど、その沈黙は一瞬だった。

「見ていなくとも、状況は明らかだ」

「何が明らかなのですか」

「あなたがミレシア様を打った」

声が強くなる。

周囲の生徒が息を潜めた。

リディエラは反論を重ねなかった。

ヴァルシェは、今この場で事実を探しているのではない。守るべき人を決め、その人を傷つけた敵を求めている。

彼の視線の中では、妹の涙がすでに証拠だった。

ティルヴァンが片手を僅かに上げる。

「感情的になるな、ヴァルシェ」

「ですが、殿下」

「私が聞いている」

穏やかな声だった。

それでもヴァルシェは口を閉じた。

ティルヴァンは再びリディエラを見る。

「打っていないと言うつもりか」

その問いに答える代わりに、リディエラはミレシアへ視線を移した。

白い指は、まだ右の頬を覆っている。

赤みはない。

腫れもない。

黒檀の骨が触れていれば、少なくとも薄い線くらいは残るはずだ。

ミレシアは姉の視線を受け、肩を震わせた。

リディエラは静かに尋ねた。

「ミレシア」

「……はい、お姉様」

「私は、あなたの頬に触れましたか」

囁きが止まった。

噴水の音だけが戻ってくる。

ミレシアの唇が開く。

けれど、声は出なかった。

彼女の空色の瞳が、ほんの僅かに揺れる。

右手は頬に置かれたまま。

その下の肌に痛みがないことを、彼女は知っている。

触れられていない。

そう答えるだけでよい。

だが、その言葉を口にすれば、姉が自分を打ったという光景は崩れる。

周囲の同情も、ヴァルシェの怒りも、ティルヴァンが守るために立つ理由も失われる。

沈黙が長くなる。

周囲の者たちは、その沈黙を別の意味に受け取った。

「怖くて言えないのよ」

「姉君に逆らえば、あとで何をされるか」

「お可哀想に」

ミレシアは一度だけ、周囲へ視線を動かした。

自分へ向けられる同情。

庇うために前へ出た騎士。

穏やかに待つ王太子。

そして最後に、リディエラを見る。

涙が、また頬を伝った。

「もう、よいのです」

それが答えだった。

触れられたとも、触れられていないとも言わない。

けれど周囲には、姉を庇って事実を伏せたように聞こえる。

ヴァルシェの顔に怒りが濃くなる。

「ミレシア様、あなたが庇う必要はありません」

「本当に、よいのです。私がもっと気をつけていれば」

「あなたに非はない」

ティルヴァンが静かに言った。

その言葉は慰めであると同時に、裁定だった。

ミレシアに非がないなら、責めを負うのはリディエラだけになる。

リディエラは妹の頬から視線を外した。

弁解することはできる。

左の掌を見せれば、扇子が当たった痕がある。近くにいた者の中には、軌道を正確に見た者がいるかもしれない。

けれど、誰もそれを確かめようとはしていない。

この場で必要とされているのは、真実ではなかった。

涙を流す妹。

彼女を守る騎士。

公平に裁こうとする王太子。

そして、言い逃れを重ねる悪い姉。

すでに役割が決まり、その形に合わない事実は切り捨てられる。

ここで左手を見せれば、自分で打っただけだと言われるだろう。

音を作るために芝居をしたのなら、妹を陥れようとしたのだと解釈される。

説明を重ねるほど、言い訳として消費される。

リディエラは黒檀の扇子を閉じた。

小さな音が鳴る。

「分かりました」

ティルヴァンの眉が僅かに動く。

「何が分かった」

「殿下が、どのような説明をお求めなのかです」

「私は事実を尋ねている」

「でしたら、先に妹の答えをお聞きください」

「ミレシアは話したくないと言っている」

「触れたかどうかには答えていません」

「これ以上、彼女へ強いるな」

穏やかな声の奥に、冷たいものが混じる。

リディエラの視界へ数字が浮かんだ。

〈ティルヴァン・エルグレード:34→32〉

下がった。

事実の確認を求めただけで。

妹へ答えを迫ったと認識されたのだろう。

このまま警戒域の下へ落ちれば、監視や尋問が強くなる。さらに下がれば、王太子の権限で排除される。

それでも、リディエラは発言を撤回しなかった。

相手を怒らせないことと、誤った判断を受け入れることは同じではない。

「妹へ強いるつもりはありません」

声を荒らげずに告げる。

「答えないことを選ぶなら、それも妹の選択です」

ミレシアの指先が頬の上で僅かに強ばる。

「ただし、答えなかったことまで、私が触れた証拠として扱わないでください」

生徒たちの間で、再び囁きが起こる。

言葉が冷たい。

妹を追い詰めている。

反省していない。

どれも、リディエラの耳へ届くような声量だった。

ヴァルシェが一歩前へ出る。

「これ以上、ミレシア様を傷つけるなら」

「傷つけるなら、どうするのですか」

リディエラは彼を見る。

灰緑の瞳に、迷いはない。

「剣を抜きますか」

腰の長剣が、重い沈黙の中で存在を主張している。

ヴァルシェの手は、また柄へ近づいていた。

「必要なら」

「誰の証言も確認せずに?」

「目の前で怯えている方を守るためだ」

「守ることと、先に敵を決めることは別です」

ヴァルシェの呼吸が深くなる。

怒りを抑えているのだろう。

〈ヴァルシェ・ネイグラン:17→15〉

赤い数字が沈む。

危険が近づいている。

リディエラの背中へ冷たい汗が流れた。

怖くないわけではない。

剣が抜かれれば、今の自分には防ぐ術がない。ティルヴァンが止める保証もない。

それでも、謝って終わらせることはできなかった。

していない行為を認めれば、ミレシアは今後も沈黙だけで姉を加害者にできる。

ヴァルシェは涙を見れば剣を抜き、ティルヴァンは状況が整えば裁定を下す。

その関係を受け入れることになる。

リディエラは左手を胸の前へ上げた。

袖口が滑り、掌が露わになる。

中央には黒檀の骨が当たった赤い痕が走っていた。薄い皮膚の一部が裂け、血が小さく滲んでいる。

周囲から、驚きの息が漏れる。

「音は、この手を打って作りました」

ティルヴァンの視線が傷へ落ちる。

ヴァルシェも一瞬だけ目を見開いた。

ミレシアの顔から、涙とは別の色が消えた。

「妹の頬には触れていません」

リディエラはそれだけを言った。

左手を証拠として差し出すつもりはなかった。信じさせるためでもない。ただ、事実を一度だけ置く。

「では、なぜそのような真似をした」

ティルヴァンが問う。

答えられない。

強制ミッションの存在を話せば、狂気と判断される可能性がある。数値や表示が自分にしか見えない以上、証明もできない。

「お答えできません」

「理由も言わず、信じろと?」

「信じてほしいとは申しておりません」

ティルヴァンの濃紺の瞳が細くなる。

「ただ、確認していただきたいだけです。妹の頬に傷があるか。私の掌に何が残っているか。それを見たうえで、ご判断ください」

沈黙が落ちた。

ティルヴァンはミレシアへ視線を向ける。

ミレシアは頬を覆ったまま、俯いている。

「見せられるか」

穏やかな問いだった。

だがミレシアの肩は大きく揺れた。

「殿下……もう、よいのです。本当に」

「確認するだけだ」

「お姉様をこれ以上お責めにならないでください」

答えはまた、ずれていた。

頬を見せるかどうかではない。

姉を責めるなと願うことで、姉が責められる行為をしたという前提だけを残す。

ティルヴァンはそれ以上求めなかった。

「分かった」

彼はミレシアの選択を尊重したつもりなのだろう。

リディエラには、確認を諦めたようにしか見えなかった。

その瞬間、視界の白い表示が大きく明滅した。

〈判定処理完了〉

〈平手打ちの音を確認〉

〈対象への接触:未確認〉

〈観衆の認識:達成〉

〈主要人物による加害認定:達成〉

リディエラの呼吸が止まる。

最後の項目。

主要人物による加害認定。

実際に妹を打ったかどうかではない。

ティルヴァンとヴァルシェが、リディエラを加害者だと判断したことが条件に含まれている。

表示が白く弾けた。

〈ミッション達成〉

〈生存ポイント:97→102〉

数字が増える。

左手の痛みも、周囲から向けられる嫌悪も、そのまま残っている。それでも世界は、成功だと認めた。

ミレシアを傷つけなかったことではない。

悪役令嬢が妹を打ったと、周囲に信じさせたことを。

リディエラは表示の消えた空間を見つめた。

この世界が求めているのは、現実の加害ではない。

加害者に見える姉。

泣いて庇う妹。

彼女を守る男たち。

誰も事実を確かめないまま完成する、分かりやすい光景。

人が傷ついたかどうかより、誰が悪者として認識されたかを重く見る。

だからミレシアの頬に触れなくても達成された。

だから、フェルニカへ謝罪した時は生存ポイントが減った。

リディエラが悪役令嬢として見える限り、世界は満足する。

「リディエラ」

ティルヴァンの声が届く。

「この件については、改めて話を聞く。今日はミレシアへ近づかないように」

命令だった。

婚約者へ向ける言葉ではない。

危険人物の行動を制限する王太子の声。

「承知しました」

リディエラは答えた。

反論はしない。

今ここで続けても、事実はもう動かない。

ヴァルシェは最後まで厳しい目を向けていた。ミレシアは彼の後ろで頬を押さえ、涙を拭っている。

リディエラは二人へ背を向けた。

歩き出すと、周囲の生徒たちが距離を取る。濃紺の制服の裾が石畳を擦り、足音だけが庭園へ響いた。

左手は脈打つように痛んでいる。

それでも、妹を打たなかったことだけは、自分の中から奪われない。

回廊へ入る直前、背後から小さな声が聞こえた。

「お姉様」

振り返る。

ミレシアが、ティルヴァンとヴァルシェの間からこちらを見ていた。

涙はまだ残っている。

けれど、その空色の瞳だけは泣いていなかった。

頬を覆っていた手が、ゆっくり下ろされる。

白い肌には、やはり何の痕もなかった。

その事実を見せるように、ミレシアは一瞬だけ顔を上げる。

そして誰にも見えない角度で、ほんの僅かに微笑んだ。

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     資料棟を出た時、時計塔は15時12分を指していた。 旧王妃庭園へ向かうよう示された時刻は16時10分。 視界の隅には、別の時間が減り続けている。〈黒ミッション残り時間:66時間49分37秒〉 リディエラは回廊の途中で足を止めた。 ティルヴァンの母アリエネが亡くなったこと。葬儀でも泣かなかったこと。母の老犬が死んだ夜、「僕が悲しめば、皆が困る」と口にしたこと。 知ってしまった。 だが、その知識を使うつもりはない。 旧王妃庭園で亡き母の話を故意に持ち出し、老犬の記憶へ触れる。泣いてもよいと優しく言いながら、涙が出るまで傷を撫で続ける。 そんなことをすれば、黒い表示は喜ぶかもしれない。 リディエラは嫌だった。 ただ、嫌だという感情だけで残り時間は止まらない。 もう一つ確かめたいことがある。 どこまでが無効で、どこからが「本人の感情」と判定されるのか。 身体を傷つけることは無効。薬も、魔術による強制も、演技も無効。 では、偽りの知らせによって本気で悲しませた涙はどうなる。 他人から誘導された感情でも、本人が本当に悲しめば有効なのか。 そんな境界を尋ねる相手として、一人だけ思い浮かんだ。 最も相談したくない男でもあった。 ネレス・カルヴァディン。 好感度11。未だ排除域。 毒を盛り、殺す理由を教えず、価値がある間だけ生かすと言った青年。 同時に、人間がどこで傷つくかをよく知っている。「マルタ」 少し後ろを歩いていた侍女が顔を上げる。「はい」「東棟へ寄ります」 マルタの表情が露骨に曇った。「ネレス様ですか」「おそらく」「またお茶を?」「飲みません」 即答すると、彼女は少しだけ安心したようだった。「人の多い場所で話します。前と同じように、少し離れていてください。ただし、私が杯に触れたら来てください」「今回は杯に触れないとおっしゃったばかりでは」「念のためです」「分かりました」 以前より、彼女は質問するようになった。 それが嫌ではなかった。 東棟の談話回廊は、午後の講義を終えた生徒たちで賑わっていた。 香辛料を練り込んだ焼き菓子の匂い。異国語の会話。窓のない回廊を風が通り、吊るされた布飾りを鳴らしている。 ネレスは、以前と同じ奥の席にいた。 今日は3人の男子生徒を相手に、札を使った遊戯をしている

  • 死亡率99%の悪役令嬢ですが、好感度50を外すと全員が壊れます   第22話 涙を見せない王子

     旧王妃庭園へ向かうまで、まだ数時間あった。 黒いミッションは、視界の隅で時間を削り続けている。〈残り時間:69時間14分08秒〉 リディエラは表示を閉じた。 焦れば、傷つく言葉を探し、過去を暴き、泣くまで追い詰める方へ傾く。それをしないと決めたのなら、まず知るべきは「どうすれば泣くか」ではなく、「なぜ泣かないのか」だった。 王立アルセリア学院の中央資料棟には、王家に関する公刊記録も保存されている。 王太子の生い立ちそのものは秘密ではない。 むしろ、王位を継ぐ者の歩みとして積極的に残されていた。 リディエラは司書へ申請し、宮廷年報、王都新聞の縮刷版、学院行事記録を閲覧机へ運んでもらった。 高い窓から射し込む朝の光。 遠くで頁をめくる乾いた音。 黒い革表紙の宮廷年報を開く。 最初に出てきたのは、六歳のティルヴァンだった。 公式晩餐へ初めて出席した日の記録。〈王太子殿下は幼少ながら終始ご立派な態度を保たれ、諸侯の挨拶へ一人ずつお応えになった〉 添えられた記録画には、小さな白金の髪の少年がいる。 大人用の椅子へ座れば足が床へ届かないほど幼い。 それでも背筋を真っ直ぐ伸ばし、膝の上へ両手を置き、正面を見ている。 笑っていない。 怯えてもいない。 子どもらしい退屈さすら見えない。 次は八歳。 外国使節団を迎えた時の記録だった。〈殿下は使節の母国語による挨拶を披露され、両国友好の象徴として大きな称賛を受けられた〉 写真のティルヴァンは、やはり同じ顔をしている。 唇の角度まで整っているように見えた。 十歳。 王太子として初めて民衆の前で短い演説を行った。〈未来の王としての責任をすでに深く理解しておられる〉 どの記録も褒めている。 泣かなかった。 取り乱さなかった。 怯えなかった。 失敗しなかった。 そのすべてが、美徳として同じ方向へ積まれていた。 リディエラは紙の余白へ簡単に書き留める。 六歳――公式晩餐。 八歳――外国使節。 十歳――初演説。 すべて「落ち着いていた」「立派だった」「年齢以上」と評価。 子どもらしい感情が記録されていない。 羽根筆を止める。 記録にないことと、存在しなかったことは違う。それでも、周囲が何を価値あるものとして残したかは分かる。 感情を抑えられる王子。 乱れない

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