FAZER LOGINミレシアの指は、頬へ届く直前で止まった。
ほんの一瞬だった。
けれど、リディエラは見逃さなかった。
蜂蜜色の髪の隙間から覗く空色の瞳が、姉の左手へ落ちる。黒檀の扇子が当たったのは自分の頬ではなく、リディエラの掌だった。痛みを受けたのが誰なのか、ミレシアだけは確かに見ていた。
そのうえで、彼女は迷った。
触れられていない頬を押さえるべきか。
何もなかったと告げるべきか。
庭園を満たす沈黙は、冷たい水の膜のように二人の間へ張りつめていた。
噴水から落ちる水音。風に揺れる白い花。遠巻きに立つ生徒たちの浅い呼吸。石畳の上へ落ちた黒い扇子の影。
リディエラの左手は、袖の陰で痺れていた。
掌の中央が熱を持ち、脈に合わせて鈍く痛む。指を動かすたび、黒檀の硬い骨が当たった場所から細い疼きが走った。
それでも手を隠さなかった。
ミレシアが真実を言うなら、姉の傷を見ればよい。
言わないなら。
その選択もまた、彼女自身のものだった。
ミレシアの睫毛が震える。
そして、止まっていた指先が頬へ触れた。
触れられていない右の頬へ。
白い指が肌を覆い、その下で唇がかすかに開く。息を呑んだような音が漏れた。
周囲の空気が、一斉に動いた。
「まあ……」
誰かが声を上げる。
その声を合図にしたように、生徒たちの囁きが広がった。
「本当に打ったの?」
「あの音を聞いたでしょう」
「妹君に、あんなひどいことを」
リディエラは妹から目を逸らさなかった。
ミレシアの瞳に、ゆっくりと涙が溜まっていく。
あまりにも美しい涙だった。
透明な雫が睫毛の先へ丸く留まり、頬へ落ちるまでの時間さえ計られたように見えた。
ミレシアは唇を噛み、首を横へ振る。
「お姉様を責めないでください」
声はか細く、けれど庭園の端までよく通った。
「きっと、私が何かしてしまったのです」
その言葉に、周囲の非難はさらに強くなる。
「ご自分が打たれたのに、まだ庇うなんて」
「ミレシア様はお優しすぎます」
「何をなさったとしても、暴力が許されるはずがないわ」
誰も、何を見たのかを確かめようとはしなかった。
黒い扇子が振り上げられた。
鋭い音が響いた。
ミレシアが頬を押さえ、涙を流した。
必要な形は、すでに揃っている。
事実よりも、出来上がった光景の方が強かった。
リディエラは、前世の職場で見た会議を思い出した。
誰かが声を荒らげ、別の誰かが俯く。事情を知らない者は、先に泣いた方を被害者だと決める。あとから説明しても、言い訳が多い、責任逃れだと切り捨てられる。
母もそうだった。
依子が何もしていなくても、母が涙を流せば、父は決まって言った。
「お母さんを泣かせるな」
何があったのかを尋ねる前に。
泣いている人間の言葉が真実なのではない。
けれど、人は真実より、分かりやすい痛みを先に信じる。
ミレシアの涙が頬を伝う。
リディエラは、自分の左手をゆっくり下ろした。
その時、回廊の向こうから、硬い足音が近づいた。
生徒たちが道を開ける。
白金の髪が、曇天の下でも冷たい光を帯びていた。
ティルヴァン・エルグレード。
王太子を示す銀青の飾緒が、濃紺の制服の胸元を横切っている。背筋は真っ直ぐで、歩調に乱れはない。表情も穏やかだった。
その半歩後ろに、ヴァルシェ・ネイグランが続く。
暗い赤褐色の髪。灰緑の瞳。腰には学院内での帯剣を許された長剣がある。
彼は庭園へ入った瞬間から、リディエラではなくミレシアだけを見ていた。
「ミレシア様」
低い声が落ちる。
ヴァルシェは数歩で彼女の前へ出た。自分の身体で姉妹の間を遮り、ミレシアの頬へ視線を向ける。
「お怪我を」
「大丈夫です。どうか、お姉様を責めないで」
ミレシアが首を振る。
その動きに合わせて涙がもう一滴落ちた。
ヴァルシェの顎が固くなる。
「これを見て、責めるなと?」
彼の右手が、剣の柄へ近づいた。
まだ触れてはいない。
だが指先は僅かに曲がり、いつでも握れる形を取っている。
リディエラの視界に赤い文字が浮かんだ。
〈ヴァルシェ・ネイグラン:17〉
〈排除域〉
好感度の数字の下で、細い光が脈打つ。
彼にとってリディエラは、すでに守るべき相手を脅かす敵だった。
ミレシアが真実を口にしなければ、彼は疑わない。
問いもしない。
目の前の涙だけで、剣を抜く理由を得る。
「ヴァルシェ」
ティルヴァンが名を呼んだ。
声は静かだった。
叱責でも命令でもない。ただ、それ以上動くなという意志だけが、低い温度の中に込められている。
ヴァルシェは剣の柄から手を離した。
しかしリディエラへ向ける視線は、刃より鋭い。
ティルヴァンは妹を庇う彼の横へ並び、リディエラを見た。
濃紺の瞳は波立っていない。
怒りを露わにせず、冷静に状況を整理しようとしているように見える。
けれど身体に残る記憶は知っていた。
彼が穏やかなほど、すでに結論は固まっている。
「リディエラ」
婚約者の名を呼ぶ声に、親しさはなかった。
「説明してもらえるだろうか」
問いかけの形をしている。
だが彼の立ち位置は、ミレシアの側だった。
彼女の涙を確かめ、ヴァルシェを制したあと、最後にリディエラへ言葉を与える。
順序だけで、誰が被害を受け、誰が説明すべき立場なのかが決まっている。
リディエラは扇子を持つ右手へ力を入れた。
左の掌はまだ熱い。
「何についてでしょうか」
庭園の空気が張りつめる。
ヴァルシェの眉が険しくなった。
「何をしたのかも分からないと言うのか」
「何が起きたと認識されているのかを確認しています」
「音を聞いた者がいる。ミレシア様は頬を押さえている。それでも――」
「あなたは、私の手が妹の頬へ触れたところを見ましたか」
ヴァルシェの言葉が止まった。
彼が庭園へ入ったのは、音が響いたあとだ。
見てはいない。
けれど、その沈黙は一瞬だった。
「見ていなくとも、状況は明らかだ」
「何が明らかなのですか」
「あなたがミレシア様を打った」
声が強くなる。
周囲の生徒が息を潜めた。
リディエラは反論を重ねなかった。
ヴァルシェは、今この場で事実を探しているのではない。守るべき人を決め、その人を傷つけた敵を求めている。
彼の視線の中では、妹の涙がすでに証拠だった。
ティルヴァンが片手を僅かに上げる。
「感情的になるな、ヴァルシェ」
「ですが、殿下」
「私が聞いている」
穏やかな声だった。
それでもヴァルシェは口を閉じた。
ティルヴァンは再びリディエラを見る。
「打っていないと言うつもりか」
その問いに答える代わりに、リディエラはミレシアへ視線を移した。
白い指は、まだ右の頬を覆っている。
赤みはない。
腫れもない。
黒檀の骨が触れていれば、少なくとも薄い線くらいは残るはずだ。
ミレシアは姉の視線を受け、肩を震わせた。
リディエラは静かに尋ねた。
「ミレシア」
「……はい、お姉様」
「私は、あなたの頬に触れましたか」
囁きが止まった。
噴水の音だけが戻ってくる。
ミレシアの唇が開く。
けれど、声は出なかった。
彼女の空色の瞳が、ほんの僅かに揺れる。
右手は頬に置かれたまま。
その下の肌に痛みがないことを、彼女は知っている。
触れられていない。
そう答えるだけでよい。
だが、その言葉を口にすれば、姉が自分を打ったという光景は崩れる。
周囲の同情も、ヴァルシェの怒りも、ティルヴァンが守るために立つ理由も失われる。
沈黙が長くなる。
周囲の者たちは、その沈黙を別の意味に受け取った。
「怖くて言えないのよ」
「姉君に逆らえば、あとで何をされるか」
「お可哀想に」
ミレシアは一度だけ、周囲へ視線を動かした。
自分へ向けられる同情。
庇うために前へ出た騎士。
穏やかに待つ王太子。
そして最後に、リディエラを見る。
涙が、また頬を伝った。
「もう、よいのです」
それが答えだった。
触れられたとも、触れられていないとも言わない。
けれど周囲には、姉を庇って事実を伏せたように聞こえる。
ヴァルシェの顔に怒りが濃くなる。
「ミレシア様、あなたが庇う必要はありません」
「本当に、よいのです。私がもっと気をつけていれば」
「あなたに非はない」
ティルヴァンが静かに言った。
その言葉は慰めであると同時に、裁定だった。
ミレシアに非がないなら、責めを負うのはリディエラだけになる。
リディエラは妹の頬から視線を外した。
弁解することはできる。
左の掌を見せれば、扇子が当たった痕がある。近くにいた者の中には、軌道を正確に見た者がいるかもしれない。
けれど、誰もそれを確かめようとはしていない。
この場で必要とされているのは、真実ではなかった。
涙を流す妹。
彼女を守る騎士。
公平に裁こうとする王太子。
そして、言い逃れを重ねる悪い姉。
すでに役割が決まり、その形に合わない事実は切り捨てられる。
ここで左手を見せれば、自分で打っただけだと言われるだろう。
音を作るために芝居をしたのなら、妹を陥れようとしたのだと解釈される。
説明を重ねるほど、言い訳として消費される。
リディエラは黒檀の扇子を閉じた。
小さな音が鳴る。
「分かりました」
ティルヴァンの眉が僅かに動く。
「何が分かった」
「殿下が、どのような説明をお求めなのかです」
「私は事実を尋ねている」
「でしたら、先に妹の答えをお聞きください」
「ミレシアは話したくないと言っている」
「触れたかどうかには答えていません」
「これ以上、彼女へ強いるな」
穏やかな声の奥に、冷たいものが混じる。
リディエラの視界へ数字が浮かんだ。
〈ティルヴァン・エルグレード:34→32〉
下がった。
事実の確認を求めただけで。
妹へ答えを迫ったと認識されたのだろう。
このまま警戒域の下へ落ちれば、監視や尋問が強くなる。さらに下がれば、王太子の権限で排除される。
それでも、リディエラは発言を撤回しなかった。
相手を怒らせないことと、誤った判断を受け入れることは同じではない。
「妹へ強いるつもりはありません」
声を荒らげずに告げる。
「答えないことを選ぶなら、それも妹の選択です」
ミレシアの指先が頬の上で僅かに強ばる。
「ただし、答えなかったことまで、私が触れた証拠として扱わないでください」
生徒たちの間で、再び囁きが起こる。
言葉が冷たい。
妹を追い詰めている。
反省していない。
どれも、リディエラの耳へ届くような声量だった。
ヴァルシェが一歩前へ出る。
「これ以上、ミレシア様を傷つけるなら」
「傷つけるなら、どうするのですか」
リディエラは彼を見る。
灰緑の瞳に、迷いはない。
「剣を抜きますか」
腰の長剣が、重い沈黙の中で存在を主張している。
ヴァルシェの手は、また柄へ近づいていた。
「必要なら」
「誰の証言も確認せずに?」
「目の前で怯えている方を守るためだ」
「守ることと、先に敵を決めることは別です」
ヴァルシェの呼吸が深くなる。
怒りを抑えているのだろう。
〈ヴァルシェ・ネイグラン:17→15〉
赤い数字が沈む。
危険が近づいている。
リディエラの背中へ冷たい汗が流れた。
怖くないわけではない。
剣が抜かれれば、今の自分には防ぐ術がない。ティルヴァンが止める保証もない。
それでも、謝って終わらせることはできなかった。
していない行為を認めれば、ミレシアは今後も沈黙だけで姉を加害者にできる。
ヴァルシェは涙を見れば剣を抜き、ティルヴァンは状況が整えば裁定を下す。
その関係を受け入れることになる。
リディエラは左手を胸の前へ上げた。
袖口が滑り、掌が露わになる。
中央には黒檀の骨が当たった赤い痕が走っていた。薄い皮膚の一部が裂け、血が小さく滲んでいる。
周囲から、驚きの息が漏れる。
「音は、この手を打って作りました」
ティルヴァンの視線が傷へ落ちる。
ヴァルシェも一瞬だけ目を見開いた。
ミレシアの顔から、涙とは別の色が消えた。
「妹の頬には触れていません」
リディエラはそれだけを言った。
左手を証拠として差し出すつもりはなかった。信じさせるためでもない。ただ、事実を一度だけ置く。
「では、なぜそのような真似をした」
ティルヴァンが問う。
答えられない。
強制ミッションの存在を話せば、狂気と判断される可能性がある。数値や表示が自分にしか見えない以上、証明もできない。
「お答えできません」
「理由も言わず、信じろと?」
「信じてほしいとは申しておりません」
ティルヴァンの濃紺の瞳が細くなる。
「ただ、確認していただきたいだけです。妹の頬に傷があるか。私の掌に何が残っているか。それを見たうえで、ご判断ください」
沈黙が落ちた。
ティルヴァンはミレシアへ視線を向ける。
ミレシアは頬を覆ったまま、俯いている。
「見せられるか」
穏やかな問いだった。
だがミレシアの肩は大きく揺れた。
「殿下……もう、よいのです。本当に」
「確認するだけだ」
「お姉様をこれ以上お責めにならないでください」
答えはまた、ずれていた。
頬を見せるかどうかではない。
姉を責めるなと願うことで、姉が責められる行為をしたという前提だけを残す。
ティルヴァンはそれ以上求めなかった。
「分かった」
彼はミレシアの選択を尊重したつもりなのだろう。
リディエラには、確認を諦めたようにしか見えなかった。
その瞬間、視界の白い表示が大きく明滅した。
〈判定処理完了〉
〈平手打ちの音を確認〉
〈対象への接触:未確認〉
〈観衆の認識:達成〉
〈主要人物による加害認定:達成〉
リディエラの呼吸が止まる。
最後の項目。
主要人物による加害認定。
実際に妹を打ったかどうかではない。
ティルヴァンとヴァルシェが、リディエラを加害者だと判断したことが条件に含まれている。
表示が白く弾けた。
〈ミッション達成〉
〈生存ポイント:97→102〉
数字が増える。
左手の痛みも、周囲から向けられる嫌悪も、そのまま残っている。それでも世界は、成功だと認めた。
ミレシアを傷つけなかったことではない。
悪役令嬢が妹を打ったと、周囲に信じさせたことを。
リディエラは表示の消えた空間を見つめた。
この世界が求めているのは、現実の加害ではない。
加害者に見える姉。
泣いて庇う妹。
彼女を守る男たち。
誰も事実を確かめないまま完成する、分かりやすい光景。
人が傷ついたかどうかより、誰が悪者として認識されたかを重く見る。
だからミレシアの頬に触れなくても達成された。
だから、フェルニカへ謝罪した時は生存ポイントが減った。
リディエラが悪役令嬢として見える限り、世界は満足する。
「リディエラ」
ティルヴァンの声が届く。
「この件については、改めて話を聞く。今日はミレシアへ近づかないように」
命令だった。
婚約者へ向ける言葉ではない。
危険人物の行動を制限する王太子の声。
「承知しました」
リディエラは答えた。
反論はしない。
今ここで続けても、事実はもう動かない。
ヴァルシェは最後まで厳しい目を向けていた。ミレシアは彼の後ろで頬を押さえ、涙を拭っている。
リディエラは二人へ背を向けた。
歩き出すと、周囲の生徒たちが距離を取る。濃紺の制服の裾が石畳を擦り、足音だけが庭園へ響いた。
左手は脈打つように痛んでいる。
それでも、妹を打たなかったことだけは、自分の中から奪われない。
回廊へ入る直前、背後から小さな声が聞こえた。
「お姉様」
振り返る。
ミレシアが、ティルヴァンとヴァルシェの間からこちらを見ていた。
涙はまだ残っている。
けれど、その空色の瞳だけは泣いていなかった。
頬を覆っていた手が、ゆっくり下ろされる。
白い肌には、やはり何の痕もなかった。
その事実を見せるように、ミレシアは一瞬だけ顔を上げる。
そして誰にも見えない角度で、ほんの僅かに微笑んだ。
読書室の時計が深夜を告げても、ティルヴァンは帰ろうとはしなかった。侍従にはすでに「呼ぶまで入るな」と告げてあり、閉ざされた扉の向こうから人の気配だけが薄く伝わってくる。暖炉の薪は半分ほど灰になり、窓硝子へ映る二人の姿も、揺れる火の光に合わせて何度も輪郭を失っていた。リディエラは斜め向かいの椅子に座ったまま、黒ミッションの残り時間を確認しないよう努めていた。 見れば焦る。焦れば、あと少しだけティルヴァンを押せばよいという考えが必ず浮かぶ。母の死、エルドの処刑、ロディマスとの関係、自分が十一歳だったという事実。そのどれか一つを強く言葉にすれば、赤くなった彼の目から涙を落とせるかもしれない。だからこそ、リディエラは何も足さなかった。 ティルヴァンは一度封筒へ戻したはずの手紙を、再び取り出した。レナ・ファネスが自分の手で作った写しであり、端には彼女の署名が残っている。父親が最後に家族へ残した手紙は、処刑の正当性について論じる文書ではなかった。妻の薬、家賃の支払日、娘の裁縫道具、冬物の外套を直す場所。その生活の途中へ、たった一行だけ王太子の名が入り込んでいた。「殿下を責めてはいけない。あの方は子どもだった」 ティルヴァンが声に出した。すでに何度も読んだはずなのに、初めて読む文章のように一語ずつ区切っている。その指先は、ほかの行では止まらなかったのに、その一文へ戻るたび動きを失った。「子どもだった」 もう一度、低く繰り返す。 リディエラは返事をしなかった。そうです、あなたは十一歳でした、と言うことは簡単だったが、その言葉を彼が何のために求めているのか分からない。許してほしいのか、自分を責める材料として否定してほしいのか、それともただ事実を確かめたいのか。本人の言葉より先に意味を与えれば、また自分が答えを奪うことになる。「私は十一歳だった」 今度は、自分自身へ確認するようにティルヴァンが言った。「はい」「でも、王太子だった」「はい」「どちらも、本当なんだね」「そうだと思います」 ティルヴァンは紙から顔を上げなかった。王族として生まれた瞬間から、年齢とは別に役割が置かれていたのだろう。六歳で公式晩餐へ座り、八歳で外国使節を迎え、十歳で民衆の前に立った少年へ、周囲は子どもだから間違えてよいとは教えなかった。幼いのに立派だ、年齢以上に落ち着いている、未
暖炉の火が低くなり始めても、ティルヴァンはエルド・ファネスの手紙を膝へ置いたまま動かなかった。封筒は折れていないのに、何度も握られた端だけが柔らかくなっており、濃紺の瞳にはまだ薄い赤みが残っている。涙は落ちていない。リディエラは向かいの椅子に座り、視界の隅で減り続ける黒ミッションの時間を一度だけ確認すると、すぐ表示を閉じた。「婚約者に、こんな話をするべきではなかった」 ティルヴァンは自嘲するように言い、椅子の背へ預けていた身体を起こした。乱れてもいない袖口を整え、膝の上の手紙も端を揃えて封筒へ戻そうとする。その一連の仕草が、崩れかけた自分を王太子の形へ戻しているように見えた。リディエラは「そう思われるのですか」とだけ尋ね、慰める言葉を先回りして置かなかった。「王族が弱みを見せれば利用される。幼い頃から、何度もそう教えられた。今さら忘れたわけではないのに、今日は話しすぎた」 ティルヴァンは水杯へ手を伸ばしたが、飲まずに戻した。母を失ったことも、エルドを告発したことも、父に褒められたかったことも、自分が正しかったと信じたかったことも、彼にとっては他人へ渡すべきでない情報なのだろう。リディエラは、黒い選択肢にあった「自分だけが理解者であると告げる」という言葉を思い出した。ここで「私だけには話してください」「私は裏切りません」と言えば、優しい婚約者として彼の最も近い場所へ座れるのかもしれない。「私が今聞いたことを利用すると思いますか」 ティルヴァンはすぐには否定しなかった。以前のリディエラなら、彼が何に傷つくかを知れば、それを避けて好かれようとし、必要なら逆に触れて相手を動かしただろうと静かに答える。今のリディエラが同じことをしない可能性は感じていても、未来まで保証できる材料はないという。その言葉は冷たかったが、リディエラ自身も同じことを考えていたため、否定できなかった。「その通りです。ですから、今後私へ話さないと決めても構いません」 ティルヴァンの眉がはっきり寄った。リディエラは彼の表情が変わっても説明を急がず、拒絶されたと感じる時間まで奪わないよう待った。暖炉で薪が割れ、乾いた音が読書室へ響く。やがてティルヴァンは、理解できないものを見るように彼女へ問い返した。「それでいいのか。普通なら、ここで『私だけには話してください』とか、『私はあなたを裏切り
読書室の暖炉では、薪が低い音を立てながら崩れていた。ティルヴァンはエルド・ファネスの手紙の写しを膝へ置いたまま、先ほどからほとんど姿勢を変えていない。それでも王太子として人前に立つ時の整った座り方とは違い、背中は椅子へ預けられ、右肩だけがわずかに落ちている。リディエラも向かいの席へ座ったまま言葉を探さず、暖炉の火が揺れるのを見ていた。 黒い表示は視界の端へ残っている。〈黒ミッション残り時間:7時間02分18秒〉〈対象の涙:未確認〉 数字は減り続ける。ここまで来ても、ティルヴァンは泣いていない。母の死を語り、自分の証言で処刑されたかもしれない男の最後の手紙まで読んだ。それでも濃紺の瞳に涙は浮かばなかった。以前のリディエラなら、あと一言、もう一つ深い傷へ触れればよいと考えただろう。黒い画面も、きっと同じことを望んでいる。 リディエラは表示を閉じた。 残された7時間が自分の命に直結していても、それを目の前の人間へ背負わせることだけはしたくない。「母上を助けたかった」 不意にティルヴァンが言った。 リディエラは暖炉から視線を戻す。「十一歳の時ですか」「そう」 ティルヴァンは手紙ではなく、自分の両手を見ていた。「母上が体調を崩すことは、それ以前にもあった。でも、いつも数日で戻った。私は子どもだったから、病気というものは医師が来て薬を飲めば治ると思っていた」 声は静かだった。ただ、その静けさはこれまでのように感情を完全に押し込めたものではなく、言葉にしながら一つずつ確かめているように聞こえた。「エルドが薬瓶を持って部屋から出てきた時、何かがおかしいと思った。もし母上へ悪いものを飲ませようとしているなら、すぐ父上へ伝えなければならないと」「王妃陛下を守るために?」「それもあった」 少し間が空く。「父上に褒められたかった」 リディエラは瞬きをした。 ティルヴァンは目を伏せたまま続ける。「当時、父上は私へよく言っていた。王太子は、誰より早く危険へ気づかなければならない。臣下が見落とすものを見つけ、国を守る判断をしろ、と」 幼い少年へ与えられた言葉だった。王としては当然の教育だったのかもしれない。けれど十一歳の子どもにとって、父王から求められる「正しい判断」は、そのまま父に認められる方法でもあったのだろう。「エルドのことを報告した時、
ティルヴァンが息を吸ってから話し始めるまで、読書室には長い沈黙があった。暖炉の火が小さく鳴り、窓の外では夜へ向かう空が少しずつ青みを失っている。彼の膝にはエルド・ファネスの手紙の写しが開かれたまま置かれ、右手の親指だけが紙の端を押さえていた。そこには王妃を殺した人物の名も、毒を入れたという自白も、誰かを告発する文章もない。ただ死を目前にした父親が家族の暮らしを案じ、その中に一行だけ、十一歳の王太子を責めるなと書き残している。 リディエラは向かいから手紙を覗き込まなかった。すでに内容を知っているからでもあるが、今ティルヴァンがどの行で指を止め、どんな顔をしているかを観察すること自体が、黒いミッションのための材料集めに変わりそうだったからだ。残り時間は確実に減っている。それでも、彼が泣く兆候を探すためにこの場へ残ったのではないと、自分へ何度も言い聞かせた。「母上が倒れる前の日だった」 ティルヴァンの声は、いつもの王太子として話す時より低かった。「夕食のあと、私は父上の執務室から自分の部屋へ戻る途中だった。母上の私室の前を通った時、扉が開いた」 彼の視線は手紙に落ちたままだった。「出てきたのが、エルドだった」 リディエラは何も言わない。「母上付きの侍従だから、そこにいること自体は不自然ではなかった。でも、手に薬瓶を持っていた」 十一歳のティルヴァンが目にした場面が、彼の声だけで少しずつ輪郭を持っていく。王宮の長い夜の廊下。壁際の魔術灯。母の私室から出てくる侍従。そして男の手の中にある、小さな薬瓶。「どのような瓶でしたか」 リディエラが尋ねると、ティルヴァンは少し考えた。「茶色い硝子。掌に収まるくらい。母上が飲んでいた薬と同じ形だったと思う」「中身は?」「見ていない」 即答だった。「瓶の蓋が開いていたかも分からない。ただ、エルドがそれを持って母上の部屋から出てきた。それだけだ」 彼はそこで一度言葉を止めた。以前なら「だから疑うのは当然だった」と結論まで続けたのかもしれない。今は、見たものと考えたことを分けようとしているようだった。「エルドは殿下に気づきましたか」「気づいた。私へ礼をした」「何か話しましたか」「母上がもう休んでいる、と言った。私は、なぜ薬を持っているのか聞いた」「答えは?」「薬師へ戻すためだ、と」 ティルヴァ
王太子から届いた返書は、夜が明けても机の中央に置かれたままだった。ティルヴァンの整った文字は短く、何度読み返しても意味は変わらない。〈知りたい。ただし、君が私を傷つけるために見つけたものなら、今は聞きたくない〉。リディエラはその一文を前に、手紙の内容を知らせる許可をレナからまだ得ていないことを確かめるように、文書入れの鍵へ指を置いた。知りたいというティルヴァンの選択が出たからといって、今度はレナの選択を飛ばしてよい理由にはならない。 午前の講義が始まる前、リディエラは王都南区の仕立て屋へ短い使いを出した。公爵家の名ではなく、先日と同じ「リディエラ」の名で、エルド・ファネスの手紙について所有者へもう一度確認したいことがある、とだけ伝える。返事は昼前に届き、レナ自身が書いた紙には、王太子本人が知りたいと望んだのなら写しを見せてもよいこと、ただし一部分だけを抜き出さず、父の手紙を最後まで読ませてほしいことが記されていた。〈あの一文だけを、父が王太子を許した証拠にはしないでください〉という追記を読み、リディエラは何度も頷いた。 黒い表示は、そんな確認を待ってはくれなかった。視界の端では残り時間が減り続け、昼を過ぎた頃には〈黒ミッション残り時間:7時間18分42秒〉と表示されている。その下には〈高強度感情刺激候補:使用可能〉という文字が脈打ち、早く手紙を使えと急かすようだった。リディエラは表示を閉じ、レナから届いた許可書と写しを別々の封筒へ入れた。今日ティルヴァンへ渡すのは、攻略のための切り札ではなく、二人の人間がそれぞれ選んだ結果として開示される一通の手紙でなければならなかった。 面会の場所に指定されたのは、王太子執務室ではなく王宮東翼の小さな読書室だった。公務用の部屋ほど人の出入りがなく、それでも完全な私室ではない。扉の外には侍従が一人控え、室内には窓が二つ、暖炉の前に向かい合う椅子が置かれている。リディエラが入ると、ティルヴァンは窓際に立っていたが、彼女が持つ文書入れへ一度視線を落としてから、静かに席を勧めた。「返事を読みました」「だから来た?」「はい。ただ、その前に手紙の所有者へ、内容を殿下へお見せしてよいか改めて確認しました」「所有者?」「エルド・ファネスの娘です。レナ・ファネス。現在24歳で、王都南区で仕立て屋を営んでいます」 ティルヴァンの
レナ・ファネスから渡された手紙の写しは、帰宅してから一度も引き出しの奥へしまえなかった。 薄い紙一枚だった。原本ではない。レナ自身が必要な部分を写し、条件を決めたうえで預けたものだ。それでも机の上へ置いてあるだけで、黒い帳簿や王宮記録局の複写より重く感じた。窓の外では夜の王都へ細かな雨が降り始め、硝子を伝う水滴が燭台の光を何本にも歪めている。 リディエラは椅子へ座ったまま、写しの一行を見つめていた。「殿下を責めてはいけない。あの方は子どもだった」 それ以外には、妻の薬代や家賃、娘の裁縫道具についての細かな指示が続いている。王家への呪いも、無実を叫ぶ言葉もない。だからこそ、その一行だけを切り離してティルヴァンへ差し出すことが、ひどく暴力的に思えた。 視界の隅で黒い表示が開く。〈黒ミッション残り時間:18時間43分17秒〉〈対象の涙:未確認〉 さらに、これまでになかった文字がその下へ浮かんだ。〈高強度感情刺激候補を検出〉〈関連対象:エルド・ファネス〉〈推奨使用:有効〉 リディエラは眉を寄せた。システムは、この紙を見つけた瞬間から用途を決めている。十一歳の自分が告発した男から、最後に「責めるな」と庇われていたと知れば、ティルヴァンの感情は大きく動く。罪悪感なのか、怒りなのか、悲しみなのかは関係ない。ただ本物の涙が出ればよい。 成功報酬は生存ポイント+30。失敗すれば-60。現在107だから、失敗後は47まで落ちる。黒い数字を眺めるほど、紙が手段に見えてくる。これを今夜王宮へ持っていき、ティルヴァンへ見せればいい。レナの許可が必要なら、内容を見せる前に取りに戻ればいい。その上で告発した日のことを尋ね、母の死とエルドの処刑を一緒に突きつける。それだけで達成する可能性は、これまでよりずっと高い。 リディエラは写しへ伸ばしかけた指を止めた。 目的が間違っている。 ティルヴァンが知るべきだから見せるのではない。本人が知りたいと望んだからでもない。自分が生き残るため、彼を泣かせるために見せようとしている。それでは、真実そのものを刃へ加工しているだけだった。 では、隠せばよいのか。 レナの父が最後に残した言葉を、自分だけが知ったまま封じる。ティルヴァンが生涯知らなかったとしても、「知らない方が幸せだ」と自分が判断して黙っている。そこまで考えると、







